その148 続”南京大虐殺”について

前回の積み残しです――

 最後に『日本国紀 下』(2018年11月・幻冬舎文庫・著者:百田尚樹)「盧溝橋事件から支那事変」のコラム欄をそのまま抜粋して紹介します。

 

≪「南京大虐殺」は、日本軍の占領直後から、蔣介石が国民党中央宣伝部を使って盛んに宣伝した事件である。たとえば、南京大虐殺を世界に最初に伝えたとされる英紙マンチェスター・ガーディアンの中国特派員であったオーストラリア人記者のハロルド・ティンパーリは、実は月千ドルで雇われていた国民党中央宣伝部顧問であったことが後に判明している。

 その著作WhatWarMeans:TheJapaneseTerrorinChina(邦訳『外国人の見た日本軍の暴行─実録・南京大虐殺─』)の出版に際しては、国民党からの偽情報の提供や資金援助が行なわれていたことが近年の研究で明らかになっている。また「南京大虐殺」を世界に先駆けて報じたアメリカ人記者ティルマン・ダーディンも『シカゴ・デイリー・ニューズ』記者のアーチボルド・スティールも南京陥落直後に南京から離れている(つまり伝聞)。

 当時、南京には欧米諸国の外交機関も赤十字も存在しており、各国の特派員も大勢いたにもかかわらず、大虐殺があったと世界に報じられてはいない。30万人の大虐殺となれば、世界中でニュースになったはずである(捕虜の処刑は別)。また、同じ頃の南京安全区国際委員会の人口調査によれば、占領される直前の南京市民は約20万人である。もう一つおかしいことは、日本軍が占領した1ヵ月後に南京市民が25万人に増えていることである。

 いずれも公的な記録として残っている数字である。仮に日本軍が1万人も殺していたら、住民は蜘蛛の子を散らすように町から逃げ出していたであろう。南京市民が増えたのは、町の治安が回復されたからに他ならない。当時の報道カメラマンが撮った写真には、南京市民が日本軍兵士と和気藹々と写っている日常風景が大量にある。

 もちろん一部で日本兵による殺人事件や強姦事件はあった。ただ、それをもって大虐殺の証拠とはいえない。今日、日本は世界でも最も治安のいい国といわれているが、それでも殺人事件や強姦事件は年間に何千件も起きている(近年の統計によれば、殺人は900~1000件、強制性交等はそれ以上)。ちなみにアメリカでは毎年、殺人と強姦が合わせると数十万件も起きている。ましてや当時は警察も法律も機能していなかったことを考えると、平時の南京では起こらないようないたましい事件もあったとは思われる。

 たとえば戦後の占領下で、アメリカ軍兵士が日本人を殺害したり、日本人女性を強姦したりした事件は何万件もあったといわれている。これらは許されることではないが、占領下という特殊な状況において、平時よりも犯罪が増えるのは常である。要するに、南京において個々の犯罪例が100例、200例あろうと、それをもって大虐殺があったという証拠にはならないのである。

 30万人の大虐殺というからには、それなりの物的証拠が必要である。ドイツが行なったユダヤ人虐殺は夥しい物的証拠(遺体、遺品、ガス室、殺害記録、命令書、写真その他)が多数残っており、今日でもなお、検証が続けられている。

 しかし「南京大虐殺」は伝聞証拠以外に物的証拠が出てこない。証拠写真の大半は、別事件の写真の盗用ないし合成による捏造であることが証明されている。そもそも日中戦争は8年も行なわれていたのに、南京市以外での大虐殺の話はない。8年間の戦争で、わずか2ヵ月間だけ、日本人が狂ったように中国人を虐殺したというのはあまりにも不自然である。

 とりわけ日本軍は列強の軍隊の中でもきわめて規律正しい軍隊で、それは世界も認めていた。「南京大虐殺」とは、支那事変以降、アメリカで蔣介石政権が盛んに行なった反日宣伝活動のフェイクニュースであった。日本軍による「残虐行為」があったとアメリカのキリスト教団体とコミンテルンの工作員が盛んに宣伝し、「残虐な日本軍と犠牲者・中国」というイメージを全米に広めたのである。

 このイメージに基づいて、後年、第二次世界大戦後に開かれた「極東国際軍事裁判」(東京裁判)では、日本軍の悪行を糾弾する材料として「南京大虐殺」が取り上げられることになる。実は東京裁判でもおかしなことがあった。この裁判では、上官の命令によって一人の捕虜を殺害しただけで絞首刑にされたBC級戦犯が千人もいたのに、30万人も殺したはずの南京大虐殺では、南京司令官の松井石根大将一人しか罪に問われていないのである。

 規模の大きさからすれば、本来は虐殺命令を下した大隊長以下、中隊長、小隊長、さらに直接手を下した下士官や兵などが徹底的に調べ上げられ、何千人も処刑されているはずである。しかし現実には、処刑されたのは松井大将一人だけであった。東京裁判で亡霊の如く浮かび上がった「南京大虐殺」は、それ以降、再び歴史の中に消えてしまう。

 「南京大虐殺」が再び姿を現すのは、東京裁判の四半世紀後のことであった。昭和46年(1971年)、朝日新聞のスター記者だった本多勝一が「中国の旅」という連載を開始した。その中で本多は、「南京大虐殺」を取り上げ、日本人がいかに残虐なことをしてきたかを、噓とデタラメを交えて書いたのである。これが再燃のきっかけとなった。

 この時の取材、本多の南京滞在はわずか1泊2日、「南京大虐殺」を語った証言者は中国共産党が用意したわずか4人だった。後に本多自身が「『中国の視点』を紹介することが目的の『旅』であり、その意味では『取材』でさえもない」と語っていいる。本多の連載が始まった途端、朝日新聞をはじめとする日本の多くのジャーナリズムが「南京大虐殺」をテーマにして「日本人の罪」を糾弾する記事や特集を組み始めた。そうした日本国内での動きを見た中国政府は、これは外交カードに使えると判断したのであろう。以降、執拗に日本政府を非難するようになったというわけだ。本多勝一の記事が出るまで、毛沢東も周恩来も中国政府も、一度たりとも公式の場で言及したことはなく、日本を非難しなかったにもかかわらずである。

 それ以前は、中国の歴史教科書にも「南京大虐殺」は書かれていなかった。「なかったこと」を証明するのは、俗に「悪魔の証明」といわれ、ほぼ不可能なこととされている。

 ただ、客観的に見れば、組織的および計画的な住民虐殺という意味での「『南京大虐殺』はなかった」と考えるのがきわめて自然である。≫

としています。

 どうでしょう、わが国を「残虐無比で極悪の国」という自虐史観の呪縛から解放されたでしょうか。

 次は同様に〝従軍慰安婦〟について述べさせていただきます。

つづく

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